戦略的工場経営ブログ戦艦大和の生産管理 人時生産性向上へのヒント16 なぜ、日本海軍は『性能』だけでなく『生産性』も求め始めたのか?

1.「一等輸送艦」と「SB艇」での生産性向上の実績
西島技術大佐は、「一等輸送艦」と「SB艇」の多量建造を求められる中で、まだ一隻も完成していない段階から、量産のやり方まで考えていました。
そこで導入したのが、実物大模型です。完成形を確認するためではなく、部品を先行製作し、製造手順を事前に確かめ、現場の迷いや手戻りを減らす生産準備の道具として活用しました。
さらに、複数枚の図面を参照する従来のやり方を改め、一枚で一つのブロックを製作できる、現場がつくりやすい図面へ変えました。
目前の手間を惜しまず、建造全体で時間と人員を減らす。その全体最適の視点が、標準化や規格化にもつながっていきます。西島技術大佐は、生産性を高めるために、従来にはない革新的なやり方を導入したのです。https://hajime-i.com/2026/07/15/blog432
その成果は、工事期間にはっきり表れました。
一等輸送艦は昭和18年(1943年)11月、三菱横浜造船所で起工され、同造船所で6隻が完成、さらに呉工廠では15隻を完成させ、合計21隻がつくられています。
1、2隻目では135日を要した工事期間が、11、12隻目には76日まで短縮されました。それ以降は75日となりました。1、2隻目の135日と比べれば、工事期間はほぼ半分です。
また、SB艇では、工期短縮がさらに早い段階から表れました。
SB艇第101型は昭和18年11月に日立向島工場で起工し、翌年2月に竣工しました。一方、量産用のSB艇第103型は昭和19年4月に同じ向島工場で竣工しています。
両型はこのほか大阪造船所、河南工業、浦崎造船所、佐世保工廠でも生産され、合計69隻がつくられました。1、2隻目では117日かかっていた工事期間が、4隻目には早くも68日となり、16隻目には60日まで短縮されています。
同じ仕事を繰り返せば、作業者は慣れます。ただ、ここで135日が75日に、117日が60日になった理由を「作業者が慣れたから」で片づけると、西島技術大佐らがやったことを見誤ります。
図面が分かりにくい。部品のつくり方がばらつく。現場でその都度考え直す。こうした状態では、作業者が経験を積んでも、手戻りや待ち時間が残ります。
西島技術大佐らは、実物大模型や現場がつくりやすい図面、標準化、規格化によって、作業者の経験がそのまま次の一隻の工期短縮へつながるよう、仕事のやり方を先に整えました。だからこそ、習熟効果が工期短縮としてはっきり表れたのです。
生産性向上は、現場に急がせることではありません。現場に頑張らせる前に、頑張った分だけ成果が出る仕事に変えるのです。
実物大模型、つくりやすい図面、標準化、規格化によって、西島技術大佐らは作業者の習熟が成果へつながる条件を先に整えました。135日が75日に、117日が60日になった背景には、この順番があったのです。
2.上は造船部長から下は少年工に至るまでなぜ熱情をかきたてられたか?
工期が短くなる。自分たちが考えた新しいやり方が数字になって表れる。西島技術大佐の部下である堀元美技術少佐ら若い技術官にとって、これほど手ごたえを感じる仕事はなかったでしょう。
これまで経験したことのない方式を次々と取り入れ、実際の建造で試していく。堀氏は当時を次のように振り返っています。
「われわれは実に張りきった気持ちでこの仕事と取り組んでいた。眉毛に火のつくような戦局の打開に役立てるのだ、という強い要請に応えようとする熱意、今まで精巧な設計にばかり注がれていた技術力を、今度は「生産」という新しい領域に集中してあらゆる創意工夫を注ぎ込むのだという技術的な意欲、それに加えて思いついたことを片っ端から実現できる特別な事態などは、上は造船部長から下は少年工に至るまでの熱情をかきたてるには十分だった。私の心の中には、これらの輸送艦の建造に傾けた若い私たちの情熱と意欲の思い出が深く刻まれている。」
ここで見逃せないことがあります。
これだけ大胆な変更を実行できたのは、西島技術大佐らが戦況に追い込まれて突然思いついたからではありません。昭和の初めごろから効率的な工法を考え、部分的に試し、戦艦大和の建造でも活かしてきました。
それまで蓄積してきた知恵を、一等輸送艦とSB艇の多量建造で一気に具体化、標準化したのです。
そして、もう一つ見逃せない言葉があります。
「生産性」です。
今なら、製品の性能だけでなく、どうすれば少ない工数で、短い期間につくれるかを考えるのは当然です。しかし、当時の日本海軍では、そうした発想は十分に重視されていませんでした。堀氏は次のように語っています。
「できあがった艦の能力についての性質…のほかに、大戦のはじまるまでの日本海軍が充分に認識しないで性能向上一点張りで努力を続けてきた念願の的の性質とはいささか離れた「生産性」という特性が必要であることを強く認識して、その「生産性」を日本の軍艦に対して導入しようと試みた最初の努力であったという点に、ひそかな誇りを感じているのである。しかもその生産性向上の努力は、戦後の日本造船業界に対して新時代に乗り出すための基礎を用意した結果にもなっているのだ。」
性能の高い艦をつくることだけを追うのではなく、どうすれば速く、繰り返し、効率よくつくれるかも考える。西島技術大佐らは、日本海軍の艦艇建造へ「生産性」という新しい評価軸を持ち込もうとしました。
今では製造業で当然のように使われる考え方ですが、当時としては画期的な発想でした。性能を高める技術だけでなく、つくり方そのものを高める技術へ目を向けたのです。
それが標準化や規格化へつながり、一等輸送艦やSB艇の工期短縮として結果に表れました。これを機会に、艦艇の性能だけでなく、それをつくる「生産性」も戦力を左右することに、多くの人が気付いたのではないでしょうか。
堀氏はさらに語っています。
「今日(昭和51年)、日本は世界第一の造船国ということで、極めて新式の巨大な設備で機械化建造を行っているが、そのアイデアの第一歩が確立されたのはこの特々の工事方式であったと思われる。また各種の新しい施設も考え方としては大体このときに提出されている。海軍の造船技術が質の面だけでなく、生産方式の面でもその後の日本の造船技術のための基礎を定めたという事実は認められるものと私は思っている。」
西島技術大佐らが導入した新しいやり方は、思いつきではありません。長年考え、試し、積み上げてきた技術があったからこそ、大胆に実行できました。
そして成果が数字で表れれば、若い技術官も現場も「もっと良くできる」と知恵を出したくなります。造船部長から少年工まで熱情をかきたてられた背景には、こうした仕事の手ごたえがあったからでしょう。
現場のやる気を引き出すのに、「もっと頑張れ」と言うだけでは足りません。
現場が知恵を出したくなる仕事をつくる。成果が出る新しいやり方を準備する。そのための技術を平時から蓄積しておく。トップ層に求められるのは、そうした仕事です。
3.忙しさの極みにあっても西島技術大佐がやったこと
呉工廠は、一等輸送艦など新たな艦艇の工事だけを抱えていたわけではありません。戦闘で損傷した艦艇が次々と入港し、その修理工事も目白押しでした。
さらに、高速艇、潜水艦、特攻艇など、さまざまな種類の工事を同時に進めなければなりません。現場は繁忙の極みにありました。
そんな中でも、西島技術大佐が崩さなかった仕事のやり方があります。
どの仕事でも自ら現場へ足を運び、自分の目で確かめ、現場の意見を聞いてから方策を立てました。机上だけで判断しなかったのです。現場、現物、現実。いわゆる3現主義が仕事の基盤にありました。
事実を自分の目で確かめれば、何ができて、何ができないのかが見えてきます。現場の事情を知らずに無理を押しつけることも減ります。
反対に、現場が「できない」と考えていることでも、条件を整えればできる場合があります。事実を押さえているからこそ、できることと、今はできないことを切り分けられます。
現場の事情を踏まえた判断なら、「なぜ、このやり方なのか」を現場へ説明できます。納得感が生まれれば、指示も通りやすくなります。そうした積み重ねが、トップ層への信頼につながったのです。
さらに、西島技術大佐は、現場を見るだけではありませんでした。呉工廠に配属されて間もないころの岡田一喜元技術中佐は、次のように述べています。
「終業後8時ごろから毎晩のように実習士官に対して西島作業主任より戦況および計画造船の実施状況についての講話はたいへん感銘を受けた。」
昼間は工事が目白押しです。それでも終業後に時間をつくり、若い技術士官へ戦況や計画造船の状況を伝えました。将来の造船を担う人材を育てることを、忙しさを理由に後回しにしなかったのです。
人が自ら考えるには、判断材料となる知識と情報が要ります。戦況や計画造船の状況を伝えることは、単に知識を教えることではありません。
「なぜ、この仕事を急ぐのか」「何を優先して判断するのか」を考える材料を渡すことでもあります。西島技術大佐は、若手に答えだけを与えるのではなく、背景や状況まで伝えました。だから、自分で考え、自発的に動ける人材が育っていったのでしょう。
そうした人材が増えれば、自分に代わって現場で判断し、成果を出せるリーダーも増えていきます。
中小製造企業でも同じです。「忙しいから指導する時間がない」を続けている限り、その忙しさはなくなりません。自分に代わって判断できる人が育たないからです。
忙しいからこそ、右腕役や現場キーパーソンへ知識を伝え、判断基準を示し、考える機会を与える。若手は、そうしたトップ層の仕事ぶりを見ています。
人を育てる時間は、余裕ができてからつくる時間ではありません。将来、自分が現場に戻されないためにつくる時間です。右腕役や現場キーパーソンが社長の判断基準で動けるようになれば、社長は工場を任せ、市場と将来へ時間を使えるようになります。
当時、十分に重視されていなかった「生産性」に目を向け、長年考え続けたことを実際の建造方法へ落とし込んだ西島技術大佐。その先を見る力には唸らされます。
組織の命運は、トップ層が何に目を向け、何を考え続けるかで変わります。経営者層は、目の前の仕事をこなすだけでなく、将来を見通して考える力を磨かなければなりません。
西島技術大佐の言動を知ると、トップ層が考えることを止めてはいけない理由が見えてきます。
性能だけでなく生産性へ目を向けた西島技術大佐。その発想が工期を縮め、現場の力まで引き出した。
出典は前間孝則著「戦艦大和誕生」です。
