戦略的工場経営ブログ戦艦大和の生産管理 人時生産性向上へのヒント14 トップの仕事ぶりが現場を育てる

Pocket

1.戦況悪化の中で問われた多量生産への覚悟

日本海軍は当初、「補給」を重視していなかったとの指摘があります。「戦ってみて補給の必要がわかり、高速輸送艦の必要に気がついた」と、西島亮二技術大佐のもとで「一等輸送艦」の建造に携わった堀元美技術少佐は語っていました。

ミッドウェー海戦で空母4隻を失った後も、アメリカの航空兵力や潜水艦によって、日本の艦艇は次々と撃破されました。昭和18年(1943年)の艦艇喪失量は当初予測の6倍以上に達したのです。

戦いが長期化すれば、武器や兵力を補給する艦艇が必要になるのは火を見るよりあきらかでした。ところが、補給を重視していなかった日本海軍では、必要な機能を備えた新たな輸送船を急ぎ準備しなければならない状況に直面しています。

それが「一等輸送艦」と「SB艇」です。ただし、新たな艦艇を設計しただけでは戦場へ送り込めません。必要な数を間に合わせるには、効率を高めて量産する具体策が必要でした。その多量建造の具体策を考えたのが、西島亮二技術大佐です。
https://hajime-i.com/2026/05/15/blog430/

西島技術大佐が「一等輸送艦」と「SB艇」の多量建造に頭を悩ませている間にも、戦況はさらに悪化します。昭和18年(1943年)2月にはガダルカナル島から撤退し、戦線の縮小を余儀なくされました。

加えて、山本五十六連合艦隊司令長官が南方視察の際、飛行機で移動していたところを米国軍機に待ち伏せされ、戦死する出来事も起きたのです。

このように、戦況が悪くなる中で、新たに司令長官に就任した古賀峯一大将は、新たな作戦方針を出します。その中には、新たな艦船の多量建造も上げられていました。

上層部より「艦船の多量生産」の要求が出されると、西島技術大佐は呉工廠の全工場の主任を集め、「一等輸送艦」と「SB艇」の建造計画を、覚悟を込めて熱く説いたのです。

その場で、西島技術大佐は、部下へ、次のように指示します。

「マスプロダクションの手法を徹底的に応用して生産効率を高める為に、必要ならが海軍在来の法規や慣例に改正を加え、例外を認めて差し支えない。君たちが技術的に責任の終えることならなんでもやれ!」

「一等輸送艦」と「SB艇」自体、新たに設計された艦艇です。まだ形になっていません。そもそも、所定の機能を発揮できるのかという懸念はありました。

しかし、より重大な課題は、多量生産のやり方でした。従来の法規や慣例に縛られていては、必要な艦艇を必要な時期に送り出せないのは明らかです。

そこで、西島技術大佐は、部下に「例外を認めて差し支えない」と言い切りました。

これは単なる号令ではありません。従来の法規や慣例を越えてでも、多量生産を実現する。その覚悟をトップ自ら示した言葉です。国家存亡の危機にあって、トップの姿勢が明確でなければ、関係部門のベクトルは揃いません。

利益が出ず、従来のやり方を変えなければならない工場でも、同じことが問われます。

現場に「改善せよ」と求めるだけでは、従業員は動けません。従来のやり方を変えてよいのか、どこまで踏み込んでよいのかが分からないからです。

人時生産性向上は、現場の努力論ではありません。社長自らが先に踏み出し、「ここまで変えてよい」と示すことで、現場は初めて動けるのです。

2.自ら例外を実践した西島技術大佐

「一等輸送艦」と「SB艇」の詳細な建造方法について、全体方針を出したのは西島技術大佐です。そして、部下の松下喜代作技術少佐と堀元美技術少佐が、現場の責任者となって計画を実行しました。

ただし、新しい建造方針は造船部だけで完結しません。造機、電気、砲熕、水雷など、関係する部門は多岐にわたります。新しい艦艇を短期間に多量建造するには、関係部門のベクトルを揃える必要がありました。

そのために、何度も打ち合わせが重ねられたのです。多量生産は、造船部だけの努力では成立しなかったのです。コミュニケーションは欠かせません。

新たな挑戦で大事なのは、「方針」や「思想」です。

従来のやり方を変える場面では、現場に明確な判断基準がありません。何を守り、何を変え、どこまで踏み込んでよいのか。その線引きを示すのはトップの仕事です。

もちろん、方針を示しただけで、すべてが解決するわけではありません。新しいことをやろうとすれば、現場には必ず壁が現れます。「一等輸送艦」と「SB艇」の建造でもそうでした。

船殻、つまり船体工事で大きな問題となったのは、多量生産に不可欠な溶接です。従来の鋲構造では短納期になりません。短納期では、当時の先端技術であった「船体への溶接技術の適用」が必要だったのです。

ただ、他の造船所では、鋲構造が必要な艦艇の建造も行われていました。建造するのは輸送船ばかりではありません。鋲設置に工数をとられます。電気溶接の能力はほぼゼロに近い状況でした。

では、どうするのか。

「一等輸送艦」と「SB艇」の建造には、短納期が求められていました。

そこで、西島技術大佐は、これら新たな輸送船をすべて電気溶接構造としました。最初は鋲構造でつくり、体制が整ってから電気溶接構造へ移行する、という段階を踏んだやり方を選ばなかったのです。

そして、西島技術大佐は、海軍の戦艦建造能力に影響することを承知のうえで、海軍が有する電気溶接の人や器具の一部を各地の造船所へ送り、効率を上げようとしました。

周囲の反対意見にも関わらず、このやり方を強引に進めたのです。そうしなければ、要求に対応できなかったからです。例外対応と言えます。

また、SB艇を建造する役割を担う予定になっていた、ある民間造船所には、建造に必要な10~20トン級のクレーンが装備されていませんでした。そこで、たまたま佐世保工廠用に準備されていたクレーンを、急遽その民間造船所に装備するという力業もやりました。

トップ自ら例外を認め、難題に挑戦したのです。言葉で「例外を認める」と言うだけではなく、人、設備、部門、慣例の壁を越える行動を見せました。

口だけでなく、行動でも示すトップ。だからこそ、部下も現場も「本気なのだ」と受け止めたはずです。

中小製造企業で新しい仕事を始める時も、同じ壁にぶつかります。設備が足りない、人が足りない、工程間の協力が弱い、従来ルールに合わない。こうした声は必ず出ます。

その時、社長が「現場で何とかしてくれ」と言うだけでは、現場は動けません。

社長の本気は、掛け声だけでは伝わりません。現場が新しい判断をできるように、社長自らが条件を整え、障害を取り除き、右腕役が動ける環境をつくることです。

西島技術大佐は、自ら例外のやり方を見せました。トップが実践してこそ、現場は新しいやり方へ踏み出せるのです。

3.部下より先を走るトップが右腕役を育てる

西島技術大佐は、自ら例外を認め、難題に挑戦しました。強引とも思えるやり方で目標完遂に全力で取り組んだ西島技術大佐にとって、部下の仕事ぶりはゆるく感じたようです。

一緒に仕事をしていた堀元美技術少佐は、西島技術大佐から次のように発破をかけられました。

「堀君、君はへぬるくていかん。もっとヤキヤキやれ。遠慮なんぞしていては何もできん!」

この言葉だけを読むと、厳しい叱責に見えるかもしれません。しかし堀元美技術少佐は、西島技術大佐に鍛えられた経験を、後に次のように語っています。

「今までの経験から考えると、私自身いささかでも成長したと思えるのは、やかましい指導者の下で働いたときだった。そう言う指導を受けて過ごしてきたから、私自身にしても、造船工事の合理化や管理法について何がしかの意見持っていたし、特に法規や慣例が進歩を妨げている点も痛感していた。」

トップの仕事ぶりが、部下を育てたのです。西島技術大佐の背中を追ううちに、堀氏は多量生産を自分の判断基準として持つようになりました。

多量生産では、目的にかなう限り、最小限度の材料と工数ででき上がるように考えます。また、一回の段取りで可能な限り多数の同種同型製品をつくるようにします。

今では知られた考え方ですが、熟練した職人の腕に頼る戦前のものづくりでは、こうした多量生産の考え方は育ちにくかったようです。管理技術ではなく、ベテラン個々のノウハウが生産活動の土台であったと言えます。

そうした環境において、堀氏は、西島技術大佐の指導を受ける中で、多量生産の基礎を身につけていました。

「艦船の量産は、その心持ちの上でなるべく量産のレベルに乗せていくだけのことだ。だが、艦内に装備しなければならない多数の部品や、機器や、艤装品をここに分解して考えれば、そこには多量生産の原理を応用すべき幾多の問題があるではないか。私(堀)の考えはそこにあった。」

これは、現在の中小製造企業にも通じます。

一見、特注生産であっても、すべてが一品一様とは限りません。工程を分解すれば、標準化できる作業、パターン化できる部品、まとめて処理できる段取りが見えてきます。個別生産であっても、生産管理3本柱の基礎で見れば、効率化の糸口はあります。

堀氏は、西島技術大佐の指導を受けながら基礎を習得し、それを応用して、独自に効率化の対象ややり方を見つけていきました。自ら知恵を絞った方法で成果を出したとの自負もあったと推測されます。そして、ある時、先輩将校からこう声をかけられます。

「オイ、西島さんが君の工事方案をほめていたぜ、堀もなかなかようわかっとる、だってさ」

堀氏は「やれやれ、及第したか・・・」と感じました。

西島技術大佐は、部下に丸投げしていたのではありません。自ら最適解を持ち、部下に仕事を任せ、必要な時には的確に助言していたのです。堀氏にとって独自と思えたことも、上司の西島技術大佐にとっては準備済みの最適解でした。

堀氏はこう語っています。

「いつだって部下よりも二歩も三歩も先を走っているのだ」

西島技術大佐は、部下に任せながらも、部下より先を走っていました。だからこそ堀氏は、多量生産の考え方を自分のものにし、工事方案を考えられるまでになったのです。

トップの仕事ぶりが、部下を育てる。今回の話から、中小製造企業の経営者が学ぶべきことは、この点にあります。

以上、戦艦大和に関する記述の出典は、全て、前間孝則著「戦艦大和誕生」です。

Pocket