戦略的工場経営ブログ戦艦大和の生産管理 人時生産性向上へのヒント13 戦略の不備を現場の頑張りで補おうとしていないか?

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1.「一等輸送艦」と「SB艇」の量産に取り組んだ西島技術大佐

昭和16年(1941年)12月、日本海軍は真珠湾攻撃によってアメリカとの戦争へ突入しました。しかし、翌年の昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦で空母4隻を失うという大打撃を受けます。ここから戦局は大きく変わったと言われています。

太平洋の広大な海では、アメリカの航空兵力や潜水艦によって、日本の艦艇は次々と撃破されていきました。昭和18年(1943年)の艦艇喪失量は、当初予測の6倍以上に達していたと言われています。

こうした状況の中、一旦、呉工廠を離れていた西島亮二技術大佐が、再び呉工廠へ呼び戻されることになりました。海軍は、修理、改造、そして新造艦艇の建造能力を抜本的に引き上げる必要に迫られていたのです。

昭和18年(1943年)5月に呉工廠へ戻った西島技術大佐は、上司である福田造船部長と協議し、「呉工廠の生産を現在の2倍に増やすために、24時間態勢とする」ことを決断、実行します。その結果、半年後には呉工廠の生産高は180%を記録しました。

戦艦大和の生産管理 人時生産性向上へのヒント12
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しかし、西島技術大佐に与えられた任務は、呉工廠の能力向上だけではありません。軍令部からは、「一等輸送艦」と「SB艇」の量産という特命も与えられていました。

戦局悪化の中、西島技術大佐は、一息つく間もなく、これらの量産と生産性最大化へ取り組むことになりました。

2.日本海軍は戦ってみて初めて補給の必要性に気が付いた

「一等輸送艦」の任務は、死闘を繰り広げる南方諸島への補給でした。一方、「SB艇」は、海から海岸の砂浜へ直接戦車を運搬し、上陸させるための輸送船です。

どちらも、敵の航空機や潜水艦の攻撃をかいくぐりながら進まなければなりません。

ところが、それまでの日本の輸送船は、兵装が貧弱で速度も十分ではありませんでした。広大な太平洋で、圧倒的な工業力を持つアメリカと戦うには、「補給」が極めて重要になります。

しかし、当時の日本海軍には、この発想が薄かったようです。

西島技術大佐のもとで「一等輸送艦」の建造に携わった堀元美技術中佐は、次のように語っています。

「第一線部隊というのは槍の穂先であるにすぎない。補給は槍の柄である。柄が無ければ穂先は役に立たない。武芸者の体力である生産力と槍の柄と穂先との大きなシステムを考えることが、この戦争では欠けていたのだ。

戦ってみて補給の必要がわかり、高速輸送艦の必要に気がついたのである。それにしてもアイデアは飛躍的には生まれない。駆逐艦であり補給力を持つものを造れ!というのが、始めの提言だった。」

前線で戦う艦艇は「槍の穂先」にすぎません。穂先だけでは戦えないのです。後方で支える「柄」が必要であり、そのさらに後ろには、生産力が存在しています。

現在で言えば、サプライチェーンの考え方です。優れた営業力があっても、製造できなければ商売は成り立ちません。材料、人、外注、物流が噛み合わなければ、工場は止まるのです。

日本海軍は、「短期決戦」を前提に真珠湾攻撃へ踏み切ったという見解があります。そのため、「補給力」よりも、「攻撃力」へ重点が置かれていたのかもしれません。

しかし、戦いが長引けば、補給力の差が勝敗へ影響してくるのは当然です。

ただ、戦略を見誤ったからといって、戦いを途中で止めることはできません。結果として、「駆逐艦であり補給力を持つものを急いで量産せよ!」という難題が、西島技術大佐ら現場へ降りかかることになったのです。

3.画期的な成果の裏側にある基礎に注目したい

「一等輸送艦」は、全長96メートル、高角砲、機銃、爆雷に加え、4隻の上陸用舟艇まで搭載された艦艇でした。急を要する状況にもかかわらず、かなり欲張った装備を持っていたのです。

しかも、軍令部からの要求は厳しいものでした。

「安く、短期間で建造できる量産体制を呉工廠に構築し、他の工廠でも建造できるようにせよ。」

さらに、生産数量だけは「呉のドックで毎月二隻を建造するように」と決められていたにもかかわらず、具体的な建造方法は示されていませんでした。

西島技術大佐は、以前、構造を極端に簡略化した商船「改E型船」の多量生産を実現させた経験を持っています。

戦艦大和の生産管理 人時生産性向上へのヒント11
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しかし、今回の「一等輸送艦」は、まったく性格が異なっていました。西島技術大佐は次のように語っています。

「構造、艤装とも極めて複雑で、各方面の要求も極めて厳しく、海軍艦政本部第四部だけで推進できた改Eとは格段のむずかしさがあった。」

つまり、「簡単なものを大量につくる」のではありません。「複雑なものを短期間で大量につくれ」という命令だったのです。

西島技術大佐らは、この難題へどう対応したのでしょうか。

幹部たちは、呉で毎月二隻を建造できる方法を実現するため、あらゆる知恵を絞りました。追い詰められた戦況のもとでは、従来の常識にとらわれない大胆な飛躍が必要だったのです。

そこで採用されたのが、戦艦大和でも実施され、改E型船でさらに推進された、ブロック建造法、早期艤装、電気溶接などの新工法、新技術でした。

特に注目したいのは、「一等輸送艦」の建造方法です。

呉の大きなドックでは、二隻ずつ、計四隻を並行して組み立てる方法が採用されました。

先行する二隻は、海に面したドック入口部から中央部へ縦に並べて建造する。一方、ドック奥側では、次の二隻分のブロックを同時並行で組み立てるのです。

船体は、艦首部、艦尾部、中央両舷側タンク部、機械室の4つへ大きく分けられました。

そして、ここからが画期的でした。

完成した二隻を同時に進水させるため、ドックへ海水を注入します。ところが奥側では、次の二隻分のブロックが組み立て途中で、鋼材も積み上がっています。

通常であれば、「海水に浸かるから危険だ」「作業が止まる」と考えるでしょう。

ところが、西島技術大佐らは、それらに構わず注水したのです。

そして、進水後に海水を排水したら、組立中のブロックを真水で洗い流し、直ちにクレーンで左舷位置へ移動し、船体組み立てへ入るという大胆な方法を採用しました。

一隻の完成には二か月かかります。しかし、二隻ずつ並行して進めることで、軍令部が要求した「毎月二隻」のペースを実現させたのです。

さらに、「SB艇」でも同様でした。

「SB艇」は、戦車を約10台搭載し、砂浜へ乗り上げて上陸させる特殊な輸送船です。前例のない仕様でしたが、ここにもブロック建造法を適用し、日立造船など民間造船所で「毎月二隻」のペースを実現しました。

ここで注目したいのは、西島技術大佐らが、闇雲に頑張ったわけではないことです。

西島技術大佐は、生産性向上の要点を押さえていました。

ひとつは、
「各ブロックの総組み立てで使う船台および造船ドックでの作業期間をできるだけ短くする」こと。

もうひとつは、
「各艦の工事日数を同じにして流れ作業とする」ことです。

前者は、ボトルネックへの対応です。ドックや船台は数が限られています。そこへ長時間滞留させれば、全体の流れが止まります。

後者は、同期化と標準化です。工事日数を揃えることで、工程全体が流れ始めます。

どちらも、生産管理3本柱の基礎そのものです。

つまり、西島技術大佐らは、追い詰められた状況の中で、奇策だけで成果を出したのではありません。生産管理の基礎へ従ったからこそ、画期的な成果につながったのです。

画期的な成果の裏側には、必ず基礎があります。知識があるから、非常時にも考え抜けるのです。

4.戦略の不備を現場の頑張りで補おうとしていないか?

戦略の見誤りを、現場の頑張りだけで補おうとすると、現場へ無理がかかります。

戦時中は非常時です。無理を承知でやらなければならない場面もあったでしょう。西島技術大佐らは、軍令部からの厳しい要求に対して、知恵を絞り、画期的な建造方法を考え出しました。

ただ、ここで注目したいのは、「気合い」で乗り切ったわけではないことです。

ブロック建造、同期化、流れ作業、ボトルネック短縮。闇雲ではなく、生産管理の基礎に従っていました。さらに、トップ層が「やる」と決め、意味を示し、条件を整えたからこそ、右腕役や現場も連動し、成果へつながったのです。

戦略の見誤りを、戦術で補わなければならない局面はあります。しかし、それを続ければ、現場は疲弊します。

これは、現在の中小製造企業でも同じです。

本来であれば、儲かる事業モデルを考えなければならない。しかし、目の前の納期対応、クレーム対応、人手不足対応に追われ、気が付けば、「現場の頑張り」で何とかしようとしている。

しかし、儲からない事業モデルのまま頑張っても、儲かりません。

どれだけ現場が努力しても、戦略そのものに無理があれば、現場へしわ寄せが来ます。そして、その無理を埋めるために、さらに経営者が現場へ張り付くことになります。

だからこそ、経営者は「戦略」を考えなければならないのです。

どの商品を売るのか。
どの市場で戦うのか。
どんな仕事を取り込み、どんな仕事を断るのか。
どこへ投資し、どこを標準化するのか。

その判断が、工場の人時生産性を決めます。

戦艦大和の時代、補給を軽視した戦略は、後から現場へ大きな負荷を与えました。そして、その無理難題へ対応した西島技術大佐らは、基礎に従いながら、生産力を引き上げていったのです。

現場での問題に見えることも、突き詰めれば、経営者の仕事となります。経営者は問題を構造で解決するのです。

以上、戦艦大和に関する記述の出典は、全て、前間孝則氏「戦艦大和誕生」です。

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