戦略的工場経営ブログ戦艦大和の生産管理 人時生産性向上のヒント12 トップ層のリーダーシップが不可能を可能にする

Pocket

1.再び呉工廠に呼び戻された西島技術大佐

戦艦大和の建造で船殻主任として指揮を執った西島亮二海軍技術大佐は、その卓越したリーダーシップによって圧倒的な工数削減を実現させた人物です。

昭和15年(1940年)、大和の進水後、船体の主要工事が完了したことから、この建造プロジェクトを離れ、呉工廠からも離れることになりました。次に与えられた任務は戦艦ではなく「商船」の建造でした。https://hajime-i.com/2026/03/15/blog428/

太平洋が戦いの舞台となる中、艦艇だけでなく、物資や兵員の輸送を担う商船の役割は極めて重要になっていたのです。

昭和16年(1941年)12月の真珠湾攻撃によって日米は開戦し、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦では空母4隻を失うという大きな打撃を受けました。ここから戦局は大きく変わったと言われています。

近代戦における兵器の進歩は破壊力を飛躍的に高め、それまで日本が経験したことのない速度で戦力が消耗されていったのです。

全面衝突は消耗戦であり、勝つためには補給を維持し続けなければなりません。つまり近代戦は補給戦でもあったのです。

こうした状況の中で、昭和18年(1943年)の艦艇喪失量は当初予測の6倍以上に達しました。

アメリカの航空兵力や潜水艦によって、日本の艦艇や輸送船は次々と撃破されていったのです。補給力を維持するためには、修理、改造、そして新造艦艇の建造能力を抜本的に引き上げる必要があります。

そのとき、再び呉工廠に呼び戻されたのが、西島技術大佐でした。

戦艦大和での工数削減、さらに戦時標準船「改E型船」の多量生産方式を考案した実績を持つ人物が、再び最前線の工場に立つことになったのです。これまでのやり方では、もう通用しない状況でした。

2.工場全体を見渡して動かせる人材がいない

近代戦は消耗戦です。個々の兵器の性能にもまして、兵器の物量が戦局を左右する時代に入っていました。

アメリカは艦艇や輸送船、航空機の多量生産を軌道にのせ、兵器を次々と戦線に送り出していたのです。しかし、日本軍は艦艇や航空機の多量生産体制づくりに対する認識が十分ではありませんでした。

西島技術大佐のもとで艦艇の多量生産に取り組むことになる堀元美技術中佐は次のように語っています。

「日本の技術者は設計技術者として育てられていて、生産技術と言う考え方は極めて乏しかった。本当のところ、製品の質を高めて世界水準にまでもっていく努力が精一杯で、それを多量に造るというところまでとても行かなかったのであろう。」

優れた性能を持つ艦艇をつくることには力を注いできましたが、それを大量に造るという発想と技術が欠けていました。

さらに堀元美技術中佐はこうも語っています。堀元美技術中佐は東大工学部船舶工学科出身です。

「大学で習ったのは造船工学の理論や、軍艦や商船の設計などであって、工場の運営の方法や、工事計画のたて方や、材料管理、生産管理などというものは工廠に来て、在来の仕来りの事実を見覚えるまでの話で、生産工学的な理論とか、工作法の系統立った習得などというものはほとんどみられなかった。」

工場全体を見渡して動かせる人材はいませんでした。

これは現在の中小製造企業にも通じる話です。職人はいる。しかし、工場全体を見渡して動かせる人材がいない。それは人材の問題ではありません。右腕役をつくる環境が用意されていないだけです。

現在、生産管理3本柱を系統的に学ぶ場はたくさんあります。経営者が右腕役を指導しようと思えばいくらでもできるのです。

3.トップ層の覚悟が右腕役を動かす

昭和18年(1943年)5月に呉工廠に戻った西島技術大佐は、呉工廠の能力アップに取り組みました。上司である福田造船部長との協議の結果、「呉工廠の生産を現在の2倍に増やすために、24時間態勢とする」ことを決断します。

これは単なる勤務変更ではありません。工場の前提を変える決断です。従来のやり方を変えます。そして、この指示を受けたのが、呉のベテラン技師である多川弘氏でした。

ある日、部長室に呼ばれた多川氏は、西島技術大佐も同席する中で「呉工廠の生産高を2倍にせよ」と厳命されます。しかし、この命令は常識では受け入れられるものではありませんでした。多川氏は次のように語っています。

「長い伝統と優れた改善指導の連続で、その優秀性は他の海軍工廠にも十分に認知されていたほどで、すでに定評のある工場なのだ。いまさらその生産能力を2倍にするなどということは望まれるべくもない。」

すでに高い水準にある呉工廠を、倍の生産能力に引き上げる。これは現場感覚からすれば不可能に近い命令でした。

それでも福田、西島の両上司は、日本軍の置かれた状況を丁寧に説明し、なぜこの命令が必要なのかを繰り返し伝えました。その結果、多川氏はこの挑戦を引き受けることになります。

「部長の厳命と、作業主任の激励とはついに私をしてこの火中の栗を拾わざるを得なくされた。」

この言葉は、単なる命令ではなく、覚悟が伝わったことを示しています。トップ層の覚悟が右腕役を動かしました。さらに重要なのはここからです。

多川氏はこの命令を受けるにあたり、条件を提示しました。
①生産増進上必要と認める対策は全面的に採用する
②必要とする資材の適時入手
③治具ならびに工具の開発制などによる完全化
ほか複数の条件です。これは現場が全力で取り組むために不可欠な環境整備に関する要求でした。現場だけでは解決できない課題です。

トップ層はこれを受け入れました。

ここに本質があります。

トップ層は命令するだけではありません。命令の背景を丁寧に伝え、さらにその実行を支える条件を整えたのです。右腕役が動くかどうかは、人材の能力ではありません。

トップ層の覚悟と行動で決まります。

命令と環境整備はセットです。どちらか一方では、右腕役は動きません。

4.トップ層の覚悟が不可能を可能にした

現場を直接に引っ張る役割を担った多川氏は、現場責任者から一般工員までを集め、次のように語りました。

「生産決戦の様相は一刻も手を緩めるときは直ちに前線の全滅、敗戦を招くことになる。(中略)今や生産力の増進こそわが祖国日本を救う唯一の途で、これなくしてはわれら国民もともに全滅を免れ得ない。」

この言葉には、呉工廠のトップ層の状況認識と覚悟がそのまま込められています。多川氏は命令を伝えたのではありません。福田、西島両上司の覚悟を、自らの言葉として現場に流したのです。

呉工廠は24時間態勢へ移行しました。それまでの実働9時間から、昼夜二交替の12時間勤務へと切り替えられ、休みは月1回となりました。

それに伴い、現場の負荷は明らかに高まります。それでも現場は上司の期待に応える動きをしたのです。

その理由を戦時下の非常時だからで片づけてはいけません。多川氏は当時の様子を次のように語っています。

「従業員約二千人、他に女子挺身隊約60名、動員学徒約百名の混成部隊も実に仲よく足並みを揃えて勇ましく生産に従事した姿は、そのまっただ中に立ちてまことに心から頭の下がる思いであった。ことに夜業本務の人々が、暖房もない凍てつくごとき鉄機の中で、一心不乱に自己の仕事に心魂を打ち込んで仕事をしている姿を、深夜巡視するとき、これを見るもの、おのずからその神々しさに襟を正すほどであった。」

ここで注目すべきは「心魂」という言葉です。

やらされ仕事では、この言葉は出てきません。では何が現場を動かしたのか。それは、トップ層が約束を守り、現場が力一杯働ける環境整備をやり切ったからです。

多川氏が提示した条件に対して、福田造船部長、西島技術大佐は絶大なる支援を続けました。多川氏は次のように語っています。

「福田造船部長、西島作業主任とも絶大なる支援をされ、ことに作業主任は午前2回、午後2回、夜業1回というごとき工場内の巡視指導に当たられ、全く文字通り献身的な努力をされたことは今も私の胸中に深い感激を呼び起こす次第である。」

トップ層は言いっぱなしではなかったのです。資材や治具の整備、工具の開発、外部との調整など、現場が止まらず動き続けるのに必要な環境整備に手を打ち続けました。

さらに自ら現場を回り、声をかけ、状況を見続けました。西島技術大佐は工員に直接声をかけ、指導し、事情を聞いていました。現場にとって頼れる存在だったのです。

人は命令では動きません。信頼で動きます。

こうした積み重ねの結果、生産高は飛躍的に増加し、実施から半年後には180パーセントを記録しました。

不可能を可能にしたのは、現場の根性ではありません。トップ層の覚悟と環境整備が、右腕役を動かし、現場の力に変わったのです。

5.可能を可能にするトップ層のリーダーシップ

トップ層のリーダーシップとは何か。それは精神論ではありません。トップダウンで意思を示し、その意味を丁寧に伝え、さらに現場が力一杯働ける環境整備をやり切ることです。

指示は一度伝えれば終わりではありません。

なぜ今やるのか、それをやることで何が変わるのか、どんな貢献をしてほしいのか。理解されるまで、かんで含めるように伝え続ける必要があります。理解されていなければ、それは伝えたことにはなりません。

そしてもう一つ、言いっぱなしにしないことです。

フォローをすれば現場の問題が見えます。その問題を解消するのはトップ層の仕事です。環境整備とは、現場が止まらず、迷わず、全力を出せる状態をつくることです。

呉工廠で生産能力180パーセントという結果が出たのは、現場が特別だったからではありません。トップ層の言動が現場の動機となり、右腕役を動かし、その結果として現場が動いたのです。

不可能を可能にするのは現場ではありません。トップ層のリーダーシップです。

あなたの工場は、そこまでの環境整備ができていますか?それは現場の仕事ではありません。

※この文章の出典は、全て、前間孝則著「戦艦大和誕生」です。

Pocket