戦略的工場経営ブログ戦艦大和の生産管理 人時生産性向上へのヒント11「革新は多数決では決まらない」

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革新的なことを、多数決で決めていないでしょうか。もしそうだとしたら、その改革はおそらく実現しません。

戦艦大和の建造に関わった一人の海軍技術者は、常識を覆す生産方式の改革方針を、わずか三日で決めました。議論ではなく、決断によってです。

その人物こそ、西島亮二海軍技術大佐でした。

1.大和建造で成果を上げた西島技術大佐

戦艦大和の建造で船殻主任として指揮を執った西島亮二海軍技術大佐は、その卓越したリーダーシップによって圧倒的な工数削減を実現させた人物です。

大和は1番艦として海軍呉工廠で建造されました。そして同時期に、2番艦である戦艦武蔵が三菱重工長崎造船所で建造されていました。

両艦は当時世界最大の戦艦であり、規模も構造もほぼ同じです。しかし、船殻(船体)建造に要した工数には大きな差がありました。

武蔵が約200万工数であったのに対し、大和はその半分にあたる約100万工数だったのです。同じ規模の製品でも、造り方を変えるだけで工数を半分にできることがあります。

この差は、三菱重工長崎造船所の技術や技能が劣っていたからではありません。同造船所も当時日本を代表する優れた造船技術を持っていました。

つまり、この工数差は呉工廠の仕事ぶりがいかに革新的であったかを示しているのです。

大和の建造では、早期艤装、ブロック建造法、電気溶接の採用などの新技術が取り入れられました。さらに、工程管理の手法も積極的に導入され、生産効率の向上が図られました。

これらの改革の先頭に立っていたのが西島亮二技術大佐でした。困難な業務をやり遂げるために現場を率い、技術革新を実行した人物です。

大和は昭和12年(1937年)に起工し、昭和15年(1940年)に進水、昭和16年(1941年)に竣工しました。

船殻主任であった西島技術大佐は、大和の進水後、この建造プロジェクトから離れます。船体の主要工事が完了したためです。

そして彼に与えられた次の任務は、戦艦ではなく「商船」の建造でした。ここで、西島技術大佐は大和建造で得られた多くのノウハウを、新たな分野で活かしていくことになるのです。

2.日米生産能力格差という現実

太平洋戦争が始まると、戦争遂行のために必要となるのは、戦艦や空母といった軍艦だけではありません。

兵員や武器、弾薬に加え、鉄鉱石や石油などの資源を運ぶ輸送船やタンカーの存在が決定的に重要になります。

しかも戦時には敵の攻撃によって多くの商船が撃沈されることも避けられません。したがって戦争準備として、平時以上の規模で商船を確保しておかなければならないのです。

このため日本海軍は、戦闘艦艇の建造だけでなく、商船の建造能力そのものを高める必要に迫られていました。大和建造で成果を挙げた西島亮二技術大佐が、次の任務として商船建造に携わることになったのも、こうした背景があったからでしょう。

当時、日本でも商船の建造計画が立てられていました。

概算では、昭和17年(1942年)に45万総トン、昭和18年(1943年)に69万総トン、昭和19年(1944年)に77万総トン、昭和20年(1945年)には82万総トンを建造する計画でした。

これを実現するためには、多量生産が可能な標準船を設計し、商船を建造する民間造船所の設備を増強することが急務でした。

しかし、海の向こうの米国では、はるかに大規模な計画が進められていました。米国の商船建造計画は、昭和17年(1942年)に800万総トン、昭和18年(1943年)には1,000万総トンという規模でした。

しかも、この計画はその後さらに上方修正され、昭和18年(1943年)の建造計画は最終的に2,000万総トンにまで拡大されます。

米国では商船の多量生産体制が急速に整えられ、例えば西海岸のカイザー造船所では、起工から進水までのリードタイムが従来最短で29日だったものを、さらに13日余り短縮させることに成功しています。

この結果、日米の生産能力の差は文字通り桁違いのものとなりました。1943年時点で、両国の商船建造能力にはおよそ30倍もの差と評価できます。長期戦になれば日本が不利になることは、誰の目にも明らかでした。

しかも、こうした情報は当時の日本国内でも報告されていました。西島技術大佐もまた、この圧倒的な国力の差を示す情報に触れていたと推測されます。

圧倒的な生産能力を持つ相手と戦わなければならない現実を前にして、西島技術大佐はどのような思いで次の仕事に取り組もうとしていたのでしょうか。

3.民間造船所での生産方式改革

民間の造船所がそれまで行ってきたやり方のままでは、こうした商船建造計画を実現することは難しいと考えられていました。

そこで、西島亮二技術大佐は、上司である福田烈海軍技術中将とともに、商船建造の進め方そのものを変えようとします。戦艦大和の建造で実証された生産方式を、民間造船所にも展開しようとしたのです。

まず、西島技術大佐が考えたのは、造船所ごとに建造する船の種類を絞り込むことでした。それまで各造船所では多様な船型を並行して建造していました。しかしこのやり方では作業の習熟が進まず、生産効率も上がりません。

そこで、各造船所が一種類の船を連続して建造する方式を導入しようとしたのです。船型を絞り込めば同じ工程を繰り返すことになり、作業の習熟が進み能率が上がるからです。

さらに、西島技術大佐は、大和建造で成果を挙げた工数統制や材料統制、金物の制式化、ブロック建造法、早期艤装などの手法を民間造船所にも導入しようとしました。つまり生産方式そのものを変えようとしたのです。

中でも、特に大胆だったのが、船台の数を減らすという方針でした。通常であれば船台の数が多いほど生産能力は高いと考えられます。

しかし、現実には人員や資材が不足しており、起工しても建造が進まない船が多くありました。船を造る場所はあるが作業が進まない、いわゆる、手待ちの状態が生まれていたのです。これではせっかくの作業場である船台を活かせません。

そこで、西島技術大佐は、使用する船台の数を思い切って半減させ、人員と資材を残った船台に集中させる方針を立てました。そして、減らした船台のスペースを、ブロックの地上組立工場として活用しようとしたのです。

これは、建造の順序に合わせて工場全体の配置を変え、モノの流れを速くするという大和建造で成果を上げた方法でした。民間造船所でも実行しようとしたのです。トップは全体最適の観点で判断します。

当然ながら、この方針に対して、民間造船所からは強い反発がありました。いつの時代にも変化への抵抗勢力はあるものです。「無茶な計画だ」という声も上がります。当時の造船界には「船は早くできるものではない」という既成概念が強く存在していたからです。

しかし、現実には、すでに米国との戦いは始まっていました。生産能力では圧倒的に劣っています。議論している時間はありません。

そこで、福田烈海軍技術中将と西島亮二技術大佐は、新しい方針をわずか三日で決めてしまいます。二年、三年議論しても決まらなかった方向性を、三日で決断したのです。

革新的なことを議論だけで決めようとしても前に進みません。最終的にはトップ層のリーダーシップが必要になるのです。

4.改E型船の多量生産方式(技術革新)

こうして商船の多量建造を前提とした新たな方式が具体化していきました。多量生産される商船の様式として決定されたのが「改E型船」です。

そして、この船を効率よく建造するための新しい生産方式が、西島亮二技術大佐によって構想されました。

従来の造船では、船台の上で船を一体として組み上げていくのが一般的でした。しかし改E型船では、船を船首、胴体、船尾の三つのブロックに分け、それぞれを専門工場で加工・組み立てる方式が採用されました。

完成した各ブロックはガントリークレーンの下に設けられた台車へ運ばれ、そこで結合されます。そして、全体が完成すると、そのまま横に移動させて横滑り船台に乗せ、進水させるのです。

従来のように船首方向から縦に進水させる方式とは大きく異なっていました。

これは、単なる作業手順の変更ではありません。船の構造、作業工程、設備配置を含めた生産システム全体の再設計でした。全体最適化の視点です。

西島技術大佐は、すでに海軍内部で先進的に取り組んできたブロック建造法や先行艤装の考え方を、ここでさらに発展させました。戦艦大和でも採用されたこれらの方式を、極度に簡素化し標準化した改E型船の建造に大々的に適用したのです。

つまり、大和建造で培われた技術革新が、商船の多量生産という新しい局面で活用されたのでした。

こうした方式が採用された背景には、もう一つの深刻な事情がありました。それは熟練工の不足です。

戦争が長期化する中で、技能を持った工員の確保は次第に難しくなっていました。商船建造が本格化した頃には、工員の八割が囚人であるという状況さえ生まれていたと伝えられています。つまり素人集団で船を建造しなければならない状況だったのです。

このような条件では、従来のように高度な技能に依存した建造方式では対応できません。そこで、船の構造そのものを単純化し、生産工程もできるだけ分かりやすく設計する必要がありました。

誰でもできるやり方が求められていたのです。同時に、短い納期で安く造ることが求められます。設計段階から生産性を高める工夫を組み込まなければならなかったのです。

結果として誕生した改E型船の生産方式は、当時としては先進的なものでした。そして興味深いことに、この基本構想は戦後の造船で採用される方式と多くの共通点を持っていました。

船は時間をかけて造るものだという従来の常識を破り、短期間で建造するという考え方がここで実現されていたのです。改E型船の生産方式は、戦後の造船のあり方を先取りする技術革新でもあったと言えます。

「誰でもできるようにする」という発想は、大手だけではなく、少数精鋭中小製造企業の現場でも必要な考え方です。人に頼るのではなく、仕組みで生産性を上げると価値を生み出せる製品群があります。

熟練者の能力に頼るのではなく、誰が作業しても同じ品質と同じ速度で仕事が進む仕組みを設計する。生産性は努力だけでなく、設計によって高められる一面もあります。

5.経営者リーダーシップの本質

革新的なことほど、経営者のリーダーシップが必要です。

もちろん議論や話し合いは大切です。現場の意見を聞くことも重要でしょう。しかし最終的な決断は、必ず経営者が下さなければなりません。

特に設備投資や生産方式の変更など、経済的な負担を伴い、会社の将来を左右する重大事項であればなおさらです。こうした決定に多数決という手段はありません。

多数決で決められた方針は、責任の所在を曖昧にします。結果が悪くても、誰も責任を取らなくなるからです。

福田烈海軍技術中将と西島亮二技術大佐は、それまで二年、三年と議論しても決まらなかった方針を、わずか三日で決めました。理由があります。すでに戦いは始まっていました。圧倒的な生産能力を持つ米国との戦争です。議論を続けている時間はありません。

決断し、行動しなければならなかったのです。非常時では、なおさら、トップ層のリーダーシップがすべてを左右します。

革新的な技術開発や生産方式の改革は、付加価値額の積み上げに直結します。人時生産性を高め、企業の競争力を強くします。

中小製造企業が成長発展していくためには、こうした技術革新への挑戦が欠かせません。そして革新的なことほど、トップダウンで進める必要があります。さらには全体最適の考え方ももとめられるのです。革新的なことは、経営者にしか判断できません。

もしかすると、革新的な取り組みを多数決で決めようとしてはいないでしょうか?

経済的な負担を伴い、我が社の将来に影響を及ぼす重大事項の決定に、多数決という手段はありません。経営者が一人で決めるのです。

貴社の革新的な取り組みは、誰が決めているでしょうか?

※この文章の出典は、全て、前間孝則著「戦艦大和誕生」です。

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